辺野古の問題とは?
まず、現場についての報告の前に辺野古が、なぜ問題になってきたかということについて簡単に書いていく。そもそも発端は普天間飛行場(米軍基地)が返還されると発表されたことにはじまる。普天間は沖縄のちょうど真ん中のあたりにある地域だ。宜野湾市に当たり、ここに沖縄県内で最も大きな米軍基地のひとつである普天間飛行場が戦後すぐ後から存在する。
宜野湾市は平成18年4月末現在人口89,532人(宜野湾市HPより)が住む比較的大きな都市だ。第二次大戦後から収容所が設置され、市内中心地に米軍基地が作られた。米軍基地が中心にあるために、市街地は基地を中心にドーナツ状に発展した基地の町である。つまり、この地域は軍事基地と市街地が隣り合わせで、頭上を戦闘機、飛行機、ヘリコプターが飛ぶのが当たり前の地域であり、市街地への墜落の可能性や騒音公害が激しい地域である。タッチアンドゴーと呼ばれる訓練などによる昼夜を問わない騒音公害によって日常的に大きな損害を受けている。2004年には墜落の危険性が現実のものになり、基地に隣接する沖縄国際大学にヘリコプターが墜落している。
このような状況の中、返還されることが、1996年にはじめて発表された。
しかし、その変換案には普天間飛行場の代替設備として、沖縄北部の名護市にあるキャンプシュワブに機能を移すということで・・・。海上ヘリポート計画だ。その後、反対運動や政治的な動きがあり、計画は停滞したが。1999年には辺野古沖に会場基地を建設することが発表された。
本格的に、辺野古で工事、調査がはじまったのは、2004年だった。4月には、海底の地質調査が始められた。8月には沖縄国際大学に減りが墜落した。これによって普天間飛行場を早くなくし、辺野古への会場基地建設を急ごうという政府の動きが活発となった。九月には地質調査、環境調査が再開され、ボーリング調査では調査するための台船によってさんご礁の破壊があったという。
そして、2007年には、海上自衛隊を投入した上での環境調査が行われた。調査船の後ろでは、威圧感を漂わせながら護衛艦が浅瀬ぎりぎりまで来ており、浜に来ていた参加者からは、「自衛隊は国民に砲を向けるのか。」と憤りを隠さなかった。この環境調査は現在でも続いている。
現場にて
実際に辺野古へ行ってみると反対運動の現場というより、普通の生活にあふれた感じだ。
これは私が始めて行った時の記憶だが、おばぁ達が、のんびり話していたりする。
辺野古に行くには、まず、那覇まで飛行機で行き、県道329号線を北上、沖縄市内で県道330号線へ入り那覇、宜野湾、沖縄、うるま、と各市町村を抜けて向かう。途中、3分の1は米軍基地の横を通ることになる。
辺野古に自衛隊が投入されるらしいと報道があったのが、2007年5月のはじめだった。それを知って、私はすぐに日程を調整し、辺野古へ向かった。まさか、という気持ちもあったが、当時の政府は常に強引な印象で、ともかく行くべきだと思ったのだ。
いざ、現場に着くと、相変わらずそこはどこにでもあるような小さな漁港という感じだ。
現場の朝は早く、日の出の時刻にはいる方もいる。現場に着くや否やいつでも出港できるように船、カヌーの準備をし、関係各所と連絡をとり、待機にはいる。時にはそのまま準備ができるとすぐ出向していくこともある。ここはとにかく朝が早い。どんなに早く来ても、だれかがもう準備を始めている印象があるくらいだ。
メンバーは、いつもと変わらない様子だった。出港し会場でカヌーを操って調査しようとする業者の行動を止める人、テント村で座り込みをする人、様々な来訪者をお世話する人、静かに自分の役割をこなす。
会場での阻止行動は完全なる非暴力で行われており、ダイバーが機材に取り付いたり、カヌーに乗って調査船にはりついたり、(船についていると、その船は安全のため移動、作業できなくなる。)そして、作業員と会話をする。作業員のほとんどが穏やかだが、中には暴力を振る人もいるし、罵声、怒声を浴びせる人もいる。そんな中でもあくまでも穏やかに普通の会話をする。調査に来ている業者の人は、国内各地から来ているようで、横浜出身者から、大阪の業者さん、沖縄の県内にいる業者さんとばらばらのようだった。話しかけた人の中には「やらないと次がない」といったことをいう方もいた。また、なんでやっているのか、聞くと仕事だから仕方がない。と返す人もいる。
調査をする作業員の周囲で、巡回する海上保安庁、業者の警備船。反対派のメンバー画調査船に近づくと邪魔をし、カヌーをひっくり返すような動き(激しい動きで波を立てる)をする。私が見ていた限り、海上保安庁の人員は反対派のメンバーには注意を与えていたが、調査作業員には海路上に作業用の鉄くいを打ち込んでも、注意さえあたえなかった。(海路上にこういったものを設置するのは船舶の航行に影響をきたすため禁じられている。)
現場にいると、作業している人からも、住人からも本当は基地なんていらないんだという思いや、いらないけど、どうせ作られてしまうんだったら、反対なんかしないで、限られた選択肢の中で、一番都合よくなるようにしたいという考えが聞くことがある。
また、反対運動を現地でしている方の話では、住民の中には、昼間は賛成、夜は反対という人がいるということだった。つまり、表立って反対を言うと村八分にあってしまうから言えないが、密かに話してみると反対なんだという方もいるという話だった。
沖縄で基地に反対か賛成か聞くのは残酷な話だと、あるLIVEで話を聞いたことがあった。私は現場で話を聞いている時、撮っている時、この言葉を忘れないようにしていた。だから、村八分の話は、この活動はやっぱり難しいなと思った瞬間で、現場の住民と私のよう外の人とやっぱり違うと改めて気づかされた場面でもあった。
外の人は住民の方々と話をし、尊重しながらも、一方で、自分の地域で何ができるかを考えていかないとならないのかもしれない。確かに事件は現場で起こるのかもしれないが、決定は東京で行われているのではないだろうか。現状の辺野古は難しい状態にある。国の方針としては推進の方向に向いている。
だからこそ、今いるところ、私の場合は東京ですが、ここで何をできるか、何を知らせるかを外の人である我々が考えるべきなのではないだろうか。
宮林秀行 |
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